中国文献においては『論衡』に「倭人」が見えている。同書は倭人が周王へ暢草(薬草)を献上したと記述しており、早ければ武王紀元前11世紀末頃、記述のある成王とすれば紀元前10世紀頃の出来事である可能性がある。当時の日本列島は縄文時代晩期ないし弥生時代初期であり、この時期から日本列島と中国との通交が始まったとする見解もあるが、『論衡』の成立が1世紀であるため、同書に依拠することに慎重な見解が有力である。
『山海経』(戦国-秦漢期成立)には倭が中国東北部にあった燕国に服属していたという記述があり、紀元前6-4世紀頃のことと考えられているが、同書についても依拠することに慎重な見解が存在する。
紀元前2世紀-紀元前後ごろの時期には、倭人は定期的に前漢へ朝貢しており、また約100の政治集団(国)を形成していた(『漢書地理志』)。1世紀中葉になると北部九州(博多湾沿岸)にあったとされる倭奴国が後漢へ朝貢している(『後漢書』)が、これは北部九州における倭人の政治集団の統合が進み、その代表として倭奴国が後漢へ遣使したと考えられている。その約50年後の2世紀初頭には、倭国王帥升が後漢へ遣使している。文献に名の残る日本史上最古の人物である帥升は、史料上、倭国王を称した最初の人物でもある。さらに「倭国」という語もこの時初めて現れている。これらのことから、この時期に倭・倭人を代表する倭国と呼ばれる政治勢力が形成されたと考えられている。これ以降、7世紀最末期までの間、倭・倭人を代表する/統合する政治勢力は「倭国」を称し続けた。(→詳しくは倭国を参照)
帥升の後、3世紀前半に活躍した卑弥呼も魏の国から親魏倭王の称号を授かった。3世紀中葉-後期に成立したとされるヤマト王権の王たちも対外的には倭王・倭国王を称したと考えられており、実際に4世紀後期から5世紀末にかけて中国王朝と活発な通交を重ねた諸王も中国に対して倭王または倭国王を称している(倭の五王)。607年の遣隋使では、倭王ではなく「日出處天子」と称したことが『隋書』に残されている。これには、中国と対等の地位で通交するため、あえて倭を称さなかったとする見解がある。しかしこのことは中国との外交に大きな影響を生じさせたため、その後再び倭を称するようになった。
紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称である。倭の住人を倭人と呼ぶこともあった。倭および倭人の指し示す範囲は時代によって変遷した。
紀元前後頃から7世紀末頃にかけて、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国と自称した。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
日本列島の古代歴史について調べてみました。
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